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私の読書日記(3) 時代を拓くディオニュソスの労働

 

『経済セミナー』20089月号所収後に加筆修正

橋本努


 「経済思想」というのはヤクザな学問である。「貨幣とはなにか」、「市場とはなにか」、「選択とはなにか」といった、この分野にはいかにも本質的で、興味の尽きないテーマ群がある。ところがこうした主題をストレートに探求しようとしても、研究の「道」がない。「経済思想」は大学の講義科目として確立されているわけでもなく、アプローチの仕方も無限に広がっている。だれもが素人的な関心でもって、薀蓄(うんちく)のあるところを語れるようになっている。その意味でこの分野は、手をつけるには、敷居の低い学問といえるだろう。

敷居の低い学問は、しかし研究の収拾がつかなくなる。よほどユニークでオリジナルな趣向をもたなければ、思考の泥沼に陥ることもまれではない。経済思想の中身とは、さまざまな洞察の寄せ集めであって、その実態は「経済を偽装した哲学」、あるいは「経済を批評する文芸」といえるのかもしれない。

ただ経済思想は、経済学を総体として批判するという、重要な役割を担ってもいる。経済思想は、エコノミストやビジネスマンたちに警鐘を鳴らしている。私たちはなにも、経済学を学んで市場社会に過剰適応し、「金儲け第一主義」で生きる必要などないのである。

ではどう生きるべきなのか。

経済活動は、生活のたんなる手段ではない。労働が手段にすぎないとすれば、それはあまりにも膨大な犠牲であろう。しかし長時間労働を強いる現代社会は、理想とは程遠いのではないか。一九-二〇世紀の人々は、こうした至極当然な疑問から、市場を根底から否定する思想、すなわち共産主義思想、に思いをめぐらせてきたのであった。

 市場の作用を、その根底から疑問に付してみる。そんな哲学的な思考が歴史的に意義をもったのは、やはり共産主義の可能性が現実味を帯びていた時代であろう。日本ではとくに、一九二〇年代から一九八〇年代ごろまでである。この時期を代表する日本経済思想の古典は、なんといっても、高田保馬著『勢力論』と廣松渉著『資本論の哲学』である。いずれも、難攻不落の金字塔であるが、最近私は、二〇〇三年に復刻された『勢力論』(初版は1940年)を読み返し、七転八倒することになった。

 『勢力論』は、オリジナリティに満ちている。本書は社会学の古典ともされるが、なによりも、基本的な諸概念の彫琢が魅力的である。高田はヘーゲルの精神現象学を超えて、ニーチェ的な「力の意志」の社会科学的な洗練を企てる。しかも、世界がやがて、国民国家を超えた「利益社会(ゲゼルシャフト=自由な個人主義社会)」へいたる必然性を解明している。また理論の内部には、いくえにも「ひねり」があって、高田保馬は実に、逆説好きな思想家である。

高田によれば、私たち近代人は「利益社会」をストレートに求めてはならない。「利益社会」は歴史の必然であるのだが、そこに至るための手段は、「東亜に広民族主義を形成すること」だという。これは当時においては、大東亜共栄圏を思想的に擁護する考え方でもあった。世界大の個人主義は、諸民族が血液を融和していくことで最もよく実現されるのであり、そのために日本人は、戦争や市場経済の拡大を通じて、国家を超えた民族混交を企てねばならない。国民国家を超えて自らの勢力を拡大しなければ、日本人は世界大の〈帝国〉のなかで他国に従属してしまう、というわけである。

 人は決して、私的なエゴに関心をもった個人ではなく、「力の意志」によって突き動かされ、集合的な勢力を満足させようとする。高田のこの洞察は、市場至上主義を否定して、エリート主導の身分社会と、民族のハイブリッド化による脱国民国家という、いわば保守主義と進歩主義の両極を結びつけることになった。

 国民国家を超えて、世界のヘゲモニーを握るという問題は、グローバルな現代社会においても重要な関心事となっている。去る七月に北海道の洞爺湖で開催されたG8サミット(先進国首脳会議)で明らかになったのは、グローバル社会のヘゲモニーは、先進諸国が連携して握るという意志表明であった。G8サミットとは、すなわち「覇者たちの力の意志」の表現である。この表現はしかし、民衆の抵抗を呼び起こさずにはいられない。サミットに合わせて札幌で行われた「一万人のピースウォーク」では、数名の民衆が警察に逮捕されている。かれらは度を越えたサウンド・デモを行ったとされるが、いずれにせよサミット対抗運動における警察と民衆の対立は、「力の意志」をめぐる闘争を象徴していよう。反グローバリストたちが求めているのも、やはり「力の意志」なのである。

ではその運動を支えているイデオロギーとはなにか。最近刊行された二つの著作、ネグリ/ハート著『ディオニソスの労働』(人文書院)、およびネグリ著『未来派左翼(上・下)』(NHKブックス)を読むと、その覚醒的なメッセージを伺うことができよう。

姜尚中氏が『未来派左翼』の解説で述べているように、ネグリの中心的なメッセージは、Inspire the Next、すなわち、次なる歴史のための活動を鼓舞することに他ならない。『未来派左翼』は大部のインタビュー集であり、南米、中国、中東、ヨーロッパ等の政治情勢について、ネグリは縦横無尽に語っている。ネグリによれば、今日成功している左派政権はどれも、トニー・ブレアのいう「第三の道」のでき損ないであって、新自由主義に包摂されている。可能性があるのは、ヒップホップ・サウンドを闘争の「象徴」として流すような街頭デモであって、それはプレカリアートたちによる、都市空間の占拠というわけだ。フランスではアルテミタンと呼ばれる舞台美術・視聴覚産業のフリー労働者たちが、最近デモに立ちあがった。こうした知的でセンスのあるプレカリアートたちの体制転覆行動こそ、ネグリが希望をかける未来派左翼の代表なのであろう。

 その背後には、知的能力のある人々が、ますます不安定な生活と低所得に甘んじながら文化活動に従事するという現実がある。社会のなかで、あまり自己実現していない優秀なマルチチュードたちの増大は、じつは、高田保馬の理論的な帰結でもあった。高田によれば、優秀な人材が速く階級を駆け上がると、今度はかれらが子どもをあまり生まず、エリートの勢力は次世代で衰えてしまう。だから優秀な人材はなるべく下層にとどまり、潜勢力となったほうがよいというのである。これはいかにも、マルチチュードの現実と並行していないか。

ネグリ/ハートは『ディオニソスの労働』のなかで、下層労働者たちの規範生成力を鼓舞している。ディオニソスとは、生きた労働の神であり、雪に埋もれながらじっと春を待つ種子であるという。ネグリ/ハートは、その種子の潜勢力を、人間学的に再構築しようと企てている。興味深いのは、かれらがロールズの『正義論』以降の規範理論を論難するくだりで、現代の規範理論は結局のところ、政体構成の根本規範を、主体の根本規範から分離させてしまったという。社会構造が正当化されればされるほど、労働形態を含めて私たちの生き方の問題は、社会の正当性とは関係なくなってしまうというのだ。これは例えば、リベラリズムやコミュニタリアンといった規範理論が、格差の問題を解決できないことを意味していよう。

だが、格差の現実は深刻である。あらたな労働の哲学が求められるゆえんである。